撮影  上井 明 様

まちと里(さと)

倭名類聚抄によれば「町(マチ)」とは「間道」すなわち「 田んぼのあぜ道」に由来する言葉である。やがて道が囲む区画を意味するようになり、道の両側に並ぶ家や店を含めて「町」と呼ぶようになる。やがてマチは都市の街区、交換・売買の行われる空間、複数の「街」のまとまりを意味するようになる。街は「大通りや賑やかなところ」の意である。

近世にはまちの中心や町内会も「町」と呼ばれるようになる。この場合はチョウと呼ばれることが多い。チョウは道を挟む両側の空間を意味し、元来はそこに形成された垣内(カイト)などの地縁的集団を意味した。社会的なチョウは中世時代に成立したとされ、近世「チョウ−町組−惣町」という重層構造を展開し、近代解体するが、今日でもチョウは都市の地域コミュニティのあり方を規定しつづけている場合が多い。

このように「町」という言葉が豊かな意味内容をもっているのは、都市の歴史そのものを反映しているからに他ならない。なお「坊(マチ)」は、城坊制などの都市計画で規定されたものである。「名語記」には「財界売買の場をマチとなづく」とあり、商業空間としての「市」を語源とするものもある。ちなみに常設店舗が軒を並べる商店街は、室町時代に成立したとされている。また町家は、居住・建築様式を意味する言葉で、11世紀はじめ城坊の中に辻が通り、大路の築地が崩される中で家並みが形成され、やがて平安期に町家が成立している。すなわち町家は、道路で区画された面路に供給された集住建築様式の一つといえる。その後商業が入り、町屋=商家となる。

・これに対し里(さと)は、人家のあるところ。自家の称とされている。道に由来せず人家に由来している点が注目される。いわゆる庶民の家周り、日常の生活空間を指す。

なお里(り)は、国衙里制の最下位の行政単位を意味する。唐の戸令にならったもので、「養老令」に里を戸よりなる行政単位としたとあり、715年には「郷」と改められた。律令制の50郷戸一里制がそれである。郷戸に変わり小家族を房戸とする郷里制がひかれる。このとき里は「コザト」と読み、郷里制の最下位単位とされたが、740年ごろには廃止され、郷のみの「郷制」に移行している。したがって郷=里として、1郷で50郷戸、130房戸が標準とされた。

360歩を1里(654m)とするその後の条里制は、条と里によってできた6町四方の方角を成した。条毎に起点を異にしながら1里、2里、3里、とつけられ、1町60歩109mとされた。ただし全国的に展開する農地の条里制は、6町四方ではなく古代からの阡陌(センパク)が土台とされている場合が多い。・いずれにせよ里である農村は、郷戸にあるように家(戸)を単位に自然によって強く規定されながら成立し、道は戸である家と家を結ぶ用でもって成立した。まちは、道が交差し人が集まる場所に意図をもって形成され、家は道にあわせて構成されていったと捉えられる。都市であるまちは条坊制にもあるように農村の自然規定性とは異なる社会性や「自由」=「開明性」を持って成立展開していったと捉えられる。それが今日の都市(マチ)と農村(サト)の空間のあり方を規定しているように思われる。

 

             
 
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