撮影  上井 明 様

旧街道と駅馬・伝馬(ウマヤ・テンマ)制度

街道とは道路のうち起終点がはっきりしている場合をいう。最も古い街道は、京都から国の国府に至った七道すなわち山陰道も含めた東海・東山・北陸・山陽・南海・西海の諸道である。いずれも官道であり、起終点の駅が明確となっている。

五畿七道の山陰旧街道は、京都と石見の国府(島根県国府町)を結ぶ幹線道で、丹波に始まり、丹後、但馬、因幡、伯耆、出雲、石見、隠岐の八カ国を結ぶ。本路は丹波から西北に進み但馬に出、それより日本海沿岸を西に進み石見の国府に至る。支路は、丹波から丹後国府の宮津に至りさらに但馬国府の日高を結ぶ「丹後支路」と出雲の黒田から隠岐の渡津千酌駅に至る「隠岐支路」がある。

905年に撰集された「延喜式」によれば、これらの旧街道に駅馬が置かれた。当時の30里、今日の5里毎に一駅を設けるのが原則である。交通量の大小によって区分され、京と大宰府を結ぶ山陽は大路、東海と東山は中路、その他は小路とされた。小路の山陰旧街道には駅馬は5疋が原則とされた。

この駅馬・伝馬制度とは、整備された道路上に一定間隔で駅を設け、急用を持つ使者が各駅で馬を乗り継ぎ、進むことを原則とした制度である。古代の統一国家の証しとされ、紀元前ペルシャで始まり、ローマで発達、中国には漢代に入り、隋・唐時代に大いに進歩した。日本は唐の制度を取り入れ、大化の改新で始まった。延喜式には全国に402駅記載され、山陰旧街道には37駅が置かれた。

駅は駅戸を持って構成される。当時の戸は、大家族制で1戸は25人程度、この駅戸が十数戸をもって駅を支えた。駅の労役の人を馬子と呼び、その中から駅長が選ばれた。施設の駅舎は使者を宿泊させる施設。駅の費用に充てるため、小路には2町の駅戸が耕作する駅田が付属していた。

伝馬は駅にはおかず郡衙に付随し置かれていた。各郡に5疋、伝戸はあったが駅田にあたるものはなく、すべて国の官物によってまかなわれた。駅馬が急用の使いであったのに対し、伝馬は官吏の移動や旅行用であった。律令制の有力な担い手であった駅馬・伝馬制度は、律令制の遅延とともに崩壊し、平安末期には崩壊されたとされる。約300年続いたこととなる。

 

             
 
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