撮影  上井 明 様

 

 近代の煉瓦について そのB

・明治政府は、欧米の先進国のような建物で新国家の外観として整えようとし、維新から直接的に西欧式煉瓦造の移植した。しかし、明治24年の濃尾地方を襲った地震で、煉瓦造の煙突や建物がバタバタと壊れ、単純に煉瓦を積み上げて家を建てるのは、日本では困難とし、当時の耐震補強として、 高品質の煉瓦を生産、施工精度を向上、そして帯状の鉄を煉瓦積の間にはさむ構造補強、の三つの方法がとられた。しかし、明治40年代に入ると三井物産横浜支店一号館(明治44年)など鉄筋コ ンクリート造の建物が建設され始める。そして、鉄骨とコンクリートを組み合わせた構造など、煉瓦造に替わる構造のオフィス・ビルが明治末から大正初期にかけて建設され始める。
・鉄筋コンクリートの新構造の導入時代に、関東大地震が発生。この震災が、煉瓦の時代に完全に終止符をうった。以降、煉瓦を主要な構造とした建物は建てられなくなる。純煉瓦構造の時代は、西欧技術の移植とともに始まり、定着の時代を経て、独自の技術開発の時代に姿を消した。煉瓦は、明治を代表する建築材料といわれるのはこのためである。
・なお、日本一大きな煉瓦の建物は大正3年(1914)に完成した辰野金吾の東京駅舎。約833万本の煉瓦を使用。北海道庁で約250万本、旧カブトビールで約240万本、旧富岡製糸場で約117万本などがある。また、広島の『原爆ドーム』も煉瓦でできている。
・建物以外では、長野県の横川〜軽井沢間の碓氷峠鉄道工事が最大である。険しい峠を抜ける11.2km余りの区間に26のトンネルと18の橋があり、そのほとんどが煉瓦で作られ、約1800万本と云われている。丹波の鐘ヶ坂の明治トンネルが約28万本だから、その量の莫大さがわかる。

ちなみに煉瓦は、日本人が考えた日本語。煉は『火で焼いてつくる』という意味があり、瓦と組み合わさって『火で焼き上げて強くした瓦』という言葉から生まれた。赤色のため、白色の耐火れんがと区別し、赤れんががとも呼ばれる。アメリカやイギリスではブリックである。

 

 

             
 
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