丹波の荘園 その@
〜荘園とは〜

(写真:氷上町由良)

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 丹波の荘園その@ 荘園とは

田庭として早くから開かれた丹波は、地勢対応したこの荘園領域が、ほぼ明治期の大字となり、今日の集落基盤の根底をなしている。すなわち丹波地域の集落の成り立ちは、この荘園領域から始まったと言っても過言ではなく、丹波地域の集落を理解することは、中世来のこの荘園領域を理解することである。ここでは、丹波の歴史の名書:細見末雄氏の「丹波の荘園」及び、週刊朝日百科「日本の歴史」等を参考にしながら約2年に渡って丹波の荘園について記してみたいと思う。

1.荘園とは
荘園とは、大きな寺院や神社.貴族がその財力で新しく開墾した土地のこと。以前は645年の大化の改新以後に決められた「公地公民の制度」により、土地と農民はすべて朝廷のものと定められていた。652年には班田収授の法が行われ、男女・子供・奴婢にそれぞれ決まった広さの土地を貸し与え、農民から租・庸・調の税をとった。
■租・庸・調と三世一身法
農民にとって租・庸・調の税の取り立てはとても厳しいもの。しかも税はそれだけではなく男子は兵にとられ、雑徭(ぞうよう)や出挙(すいこ)もあって、年がたつにつれ逃げ出す農民が多くなった。このため耕されずに荒れはてた口分田(朝廷が貸し与えた公地♂23a、♀その2/3程度)があちこちに見られたと記録に残る。農村から逃亡した農民は浮浪人と呼ばれ、多い時には5人に1人が浮浪人だったとある(後に,この浮浪人が有力者の荘園を開墾する)。
そこで,朝廷は723年に「三世(さんせい)一身法(いっしんほう)」を出したが、農民の逃亡はおさまらず、ついに743年に「墾(こん)田(でん)永年(えいねん)私財(しざい)の法(ほう)」を出す。これは新しく開墾した土地の私有を認めるという法律で、この法律によって大寺社や貴族には広い面積(当時の500町歩)を、一般農民には狭い面積(当時の10町歩)の私有を認めた。貴族と一般農民とのあいだの豪族や役人にはその身分に応じて面積を割り当てた。500町歩〜10町歩の私有地があちこちに誕生することとなる。

○租・庸・調=租はお米,庸は労役のかわりに布などを,調は織り物や地方の特産物を,いずれも都まで運んで納める税。なお,租は収穫高の約3%である。
○雑徭=1年に60日以内地方の労役に出ること.
○出挙=役所が種もみを貸し出し,収穫後に利子と合わせて稲をとりたてること.
○三世一身法=新しく開墾した土地は親子孫の3代までは自分の土地にして良いという法律.4代目には返却.墾田永年私財の法=新しく開墾した土地は完全に私有化して良いという法律.初めの頃は身分に  より限度が決められていたが,奈良時代末には限度は無くなったのが実態。


 

             
 
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