丹波の荘園 そのA-1
〜荘園の成り立ち〜

(写真:氷上町由良)

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 ■初期荘園の出現
朝廷は新しく開墾して水田を作る時、国の管理する用水を使う場合は「全て公(こう)田(でん)とする」という決まりがあった。このため完全に私有するためには新しく水路を作る必要があった.水路を造るためには沢山のお金と労働力がなければできない.結局、そうした力を持つ寺社や貴族、あるいは豪族などが新しい土地を手に入れていくことになる。これが荘園のはじまりである.しかし、私有地といってもそこから収穫される稲に税がかかるので、朝廷にとっても大いに助かる話だった(
ただし有力な寺社には免税の権利が与えられていた)。さらに749年に東大寺の大仏ができると朝廷は、東大寺に4000町歩の土地を開墾してよいことを認めた.もちろんその他の寺院にも2000町歩,1000町歩と認め、有力社寺を中心に数多くの大規模な荘園があらわれることになる。今でも丹波をはじめ全国各地に東大寺領の荘園であった所が多く残っているのはこのためである。
  こうした荘園を日本史では初期荘園と呼んでいる。


■丹波地域の初期荘園
丹波地域の初期荘園としては、いち早く東大寺領となった多紀郡後川荘と氷上郡布(ふ)佐比(さひ)荘がある。これらは東大寺完成前に施入されている。船木連(ふなきむらじ)が住吉神社に寄進した椅鹿山杣(はしかやまそま)は、播磨から有馬、丹波に至る広大なもので、後の多紀郡小野原荘と味間荘となる。
平安初期には摂関家領の大きな荘園が現れる。多紀郡の宮田荘と大山荘である。どちらも前太政大臣家藤原良房の所領であり、もとはその北の草山荘、その東の藤坂荘さらに天田郡の?原荘、船井郡水原荘も、五箇荘と呼ばれた藤原氏の荘園だった。多紀郡日置荘も藤原基経の領地だったといわれる。殿下渡領など藤原氏の荘園であったところは、ほとんど春日神社を祀っているが、総社はやや少なく集落に分祀されているところが丹波には多い。成立が古い荘園であることと早く荘園が分解されたことを物語るものといえる。

○東大寺領⇒多紀郡後川荘、古佐荘、櫟原荘、氷上郡布佐比荘

○殿下渡領⇒多紀郡宮田荘、藤坂荘

このように早くから成立した藤原氏の荘園は、例外もあるが、大半が広い地域にまたがるものが多い特徴がある。この他、皇室領荘園は、荘域内の総社の大半が延喜式内社が多く、末社は見当たらない。これは皇室が直接下地に関与せず、下地を支配する領家の後退゛あ利、永続しなかったためと考えられている。

○初期の皇室領:淳和院⇒氷上郡三井荘、法勝寺⇒氷上郡沼貫荘、御油荘、宝荘厳院⇒氷上郡葛野荘、心楽荘、法金剛院⇒多紀郡三箇北荘、三箇南荘、安行荘、主殿保、氷上郡三和勅旨田、歓喜光院⇒多紀郡多紀荘、智恵光院⇒多紀郡大沢荘、長講堂⇒氷上郡前山荘、最勝光院⇒氷上郡船木荘、八条院⇒多紀郡多紀荘、禁裏御料⇒氷上郡栗作保

 

             
 
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