丹波里学 後鳥羽上皇と承久の乱 

 

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 後鳥羽上皇と承久の乱

 後鳥羽上皇は、武士さながら武芸にはげみ,その上当時一番の教養だった和歌を作ることにも優れていた.(有名な「新古今集」はこの人が作ったと云われている)上皇となれば朝廷からは退くが,実際には院に入り天皇に大きな影響力をもった。こうした政治を院政と呼んだ。院政は平安時代の終わり頃から行われるようになり,天皇を頂点とする朝廷よりも力があったために荘園の多くが院に寄進されるようになった.ところが鎌倉幕府ができてしまったので、荘園に配置された地頭は年貢を払わなくなり,東国からの荘園寄進もなくなってしまった。


後鳥羽上皇は、近臣を出羽羽黒山の最高位に、皇子を天台座主に送り込み、寺院勢力を味方につけようとする。この頃、順徳天皇は4歳の仲恭天皇に譲位している。

1221(承久3)年、鳥羽離宮に流鏑馬(やぶさめ)揃いと称して、近国の兵を集め、北条義時追討の宣旨が下す。承久の乱の勃発である。親幕派の公卿を幽閉され、二人の京都守護のうち、大江親広は京方につき、伊賀光季の屋敷は京方の軍勢に囲まれ、自害する。一方幕府は、宣旨が関東の豪族達に届く前に使者を取り押さえる。それでも、御家人達に動揺した。そこで、主だった御家人を前に政子は幕府の危機を訴え、「時代の流れ、そして頼朝の恩」を語った。幕府の宿老達には迷いがあったが、政子は京都進撃の断を下す。鎌倉方は東海道・東山道・北陸道から京都を目指した。京方の要衝は次々と打ち破られ、京は大混乱となり、上皇は山門の衆徒を味方にしょうとするが、拒否され、そして遂に上皇は院宣を下して、今回の戦は謀臣がやったことだとした。


京方の敗北で承久の乱は終わる。義時を中心とする幕府は厳しい責任追及を行い、後鳥羽上皇は隠岐に流され、順徳上皇は佐渡に流される。土御門上皇は、直接責任はなかったとされるが、上皇は京都に留まるのを潔しとせず、土佐に流されるが、翌年には阿波まで幕府は迎えている。天皇はまだ即位してなく、外祖父九条道家に引き取られ、廃帝となっていた。

  by 如月ノンノン

 

 

             
 
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