丹波里学 承久乱後の北条氏の対応
−六波羅探題の設置 

 

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 承久乱後の北条氏の対応−六波羅探題の設置

 

後鳥羽上皇とその周辺には多くの皇室御領が集積されていた。鳥羽院政時代に行われた寄進によって形成されていた八条院領や後白河法皇が自分の下に集積し所領を寄せた長講堂領、後鳥羽院政下で、畿内近国を中心に集積された七条院領のように何代にもわたって寄進が行われ、所領が集積されていた。義時はこれら皇室領を全て没収してしまう。

 幕府は、後鳥羽上皇とその系統の天皇を排除し、幕府は高倉天皇の皇子で、後鳥羽上皇の兄、出家していた親王に目をつける。この親王を太政天皇とし、後高倉院として院政をとり、天皇はその皇子を後堀河天皇とする。摂政は九条道家から近衛家実に更迭する。


幕府は再び叛乱が起きないように、義時の弟の時房と子の泰時を六波羅探題として京都に送り込み、六波羅を本拠に、洛中の警固と西国の幕府関係の裁判を行う。二つの六波羅の地位は執権・連署に次ぐもので、北条一門の有力者によって占められるようになり、従来の京都守護よりはるかに広範な行政・軍事上の権力を持つようになる。


□新補地頭の設置

1221年におきた朝廷と幕府との戦(承久の乱)は,幕府側の大勝利に終わった.朝廷側についた荘園領主や大名主の持っていた領地は没収され、これらの土地に将軍の家来である御家人が地頭として任命された.また,それ以外の領地にも幕府による地頭の設置が行われるようになる。このように承久の乱以後に任命された地頭を新補地頭と呼ぶ。承久の乱による没収地は全国で3,000箇所以上に昇り、ここに地頭として乱で手柄を立てた御家人等の関東の武士が入ってくる。


西国の荘園・公領のうち平氏の没官領には既に幕府が任免権を持つ荘郷地頭(丹波では酒井氏)が入っていたが、承久の乱で王朝側に立った武士の没収地には東国御家人が新補地頭として入部してくる。


すなわち、兵庫県丹波でなじみの深い、久下氏、荻野氏、芦田氏、中沢氏等らの入部である。

 

  by 如月ノンノン

 

 

             
 
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