丹波里学 丹波の新補地頭たち 

 

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 丹波の新補地頭たち

新補地頭

兵庫県丹波地域には、荘郷地頭の酒井氏に続き、足利家の直参:久下氏が入り、承久の乱後新補地頭として荻野氏、足立氏、芦田氏そして中沢氏が入部してきた。当時兵庫県丹波地域には、地侍として余田谷の余田氏、葛野の本庄氏、佐治の小島氏、鹿集の吉見氏、承久3年御家人となる波々伯部氏、大山の小山氏、波賀野の波賀野氏、福住の籾井氏、日置の日置氏、大芋の小芋氏、多紀の村雲氏らが士豪として各地で勢力を誇っていた。士豪たちは巧みに時節に応じて新補地頭の傘下等に入ったり連携あるいは敵対しながら、それぞれの地域で勢力を保持し分割割拠しあいながら戦国期の波多野氏と赤井氏(荻野氏)に統合されていくことになる。今日も継承される丹波になじみ深い地名や姓名は、ほぼ承久乱後の鎌倉末から室町期に形成されていくことになる。

  新しく入ってきた新補地頭たちは、それぞれの領地で東国のやり方を強制し、百姓達に対し地頭への従属を強制したため、西国各地で強い抵抗が起こった。その訴えを支える領家・預所と地頭との訴訟は各地で頻発して行くことになる。

■久下氏
  武蔵国久下郷の出の鎌倉御家人で、足利氏の直参、一の谷(1184)の功により、伊豆国玉川荘や美作国印荘、三河国篠田保とともに丹波国栗作郷を与えられた。

 承久の乱には久下三郎(直高)が京に上り、一条少将能継を丹波国芦田へ流刑の護送をし、東芦田で斬った(少将社)ことが「慈光寺本承久記」に記録されている。直高は、武蔵へ帰らず、栗作郷金屋にとどまった。

  南北朝期には、足利尊氏らとともに各地を転戦し、特に建武3年(1336)新田義貞に敗れた尊氏が丹波に逃れたとき、これをよく防御し、尊氏が播磨に赴くとき弟義詮を井原荘石龕寺に留め護っている。これらの功により久下時重は、井原荘牧山村、、沼貫庄佐野村を、貞和3年(1347)に嗣子貞重は小椋荘、河口荘(福知山)の領家職を、延文3年(1358)には新郷、願王寺村を充行われた。二男頼直には、心楽荘の地頭職や飛騨国石浦郷、武蔵国池守郷・久下郷の地頭職が与えられている。

 こうして久下一族は、丹波地域では、荻野氏と並ぶ丹波国最有力の武士となった。明徳の乱も山名氏清を裏切り細川頼之に寝返って敗戦を免れ、その後も代々将軍に所領は安堵されていたが、細川政元との政乱に敗れ、所領は押領され久下政光は流浪する。その後将軍足利義材(義稙)の返り咲きとともに政光も一時回復するが、細川政元の被官であった波多野氏や赤井氏等に押領され、足利幕府に訴えを起こすも返還されないまま、明智光秀の丹波攻めを迎えることとなった。

 

  by 如月ノンノン

 

 

             
 
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