丹波里学 丹波の新補地頭たちその2 

 

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 丹波の新補地頭たちその2

■荻野氏

姓は、梶原景時と同祖の平氏で、相模国愛甲郡荻野の出。承久元年(1219)新補地頭となり、葛野荘(氷上町)東部を領し、下新庄に居住。南北朝期丹波守護代を務め、戦国期には春日部荘の黒井城の城主となる。


太平記に突如現れる荻野朝忠は、元弘3年(1333)後醍醐天皇の命で六波羅を佐治荘の足立三郎と共に京都四条油小路に攻め入っている。総大将の臆病にあきれ、退却し、葛野荘の高山寺に立てこもったと記録にある。

同年4月には、足利高氏(尊氏)が亀岡の篠原八幡宮に陣を敷いた時、久下時重をはじめ丹波地域の地侍の葦田・余田・酒井・波賀野・小山・波々伯部らが集まったが、朝忠は、足立、小島、和田、位田、本庄、平庄らと共に北陸道で若狭国を経て、六波羅を攻め、建武の中興に貢献。建武2年(1335)尊氏が叛旗を翻し、それに従い京に攻めのぼるが、惜敗し再び久下、波々伯部らと共に葛野高山寺にたてこもり、その時、朝忠は仁木の代官として丹波守護代となった。その後も尊氏方に属し、宮方と戦ったが、興国4年(1343)突如尊氏に叛き高山城に立てこもった。このため仁木頼章は丹波守護を辞任している。

幕府は、山名時氏を丹波守護に任じ朝忠討伐を命じ、高山寺は囲まれ、朝忠は降人となり、葛野荘は没収、天田郡に移ったといわれる。

貞和4年(1348)四条畷の戦いには尊氏方で、高師直軍に属し参戦。観応元年(1350)尊氏が子の義詮を伴って丹波に逃れ、久下氏を頼ったとき、朝忠はいち早く駆けつけ、波々伯部、中沢と共に義詮を護っている。正平7年(1352)南朝方の千種顕経が突如丹波を攻め入るが、その時の丹波守護代は朝忠、南北朝が対立するたびに朝忠は北朝方で活躍し、保津城(亀岡)、須知城(船井郡)、庵我城(福知山)を攻略、犬山(犬岡)の陣では高山寺城に敵を追い込み、野々村葛坂(美山)の戦い等、その後も東奔西走の活躍であった。

朝忠の末路は不明だが、晩年天田郡夜久郷で竜ヶ城を構えたと云われる。夜久郷千原村には荻野神社が祀られ、竜ヶ城の山麓の神通寺円満院は、朝忠の二男祐賢が再興したと伝えられている。その後も太平記をはじめ室町期の畿内書物や抗争にはいつも荻野何某が登場する。丹波守護代の命によるもので、丹波地域では相当の武士であったと思われるが、詳細はよくわかっていない。


尊氏が赤松貞載に充行した春日部荘で貞載は黒井城を築くが、後に美作(岡山県)守護となり、春日荘の代官を荻野氏とした。貞載の子孫は衰退したため、春日部荘も黒井城も荻野和泉守次いで伊予守秋清のものとなるが、天文23年(1554)甥の荻野直正に倒され、荻野氏は衰退する。

丹波の名族荻野氏は、南北朝期最も華々しく活躍した。朝忠が丹波武士を良く統制したからに他ならない。かつての守護仁木頼章に信頼され代官を務めたことによるが、仁木氏が衰退し山名・細川へと丹波守護が変わると疎外されたらしく、その存在の影は薄らいだ。それでも地方武士としての地歩は保ったが、ついに戦国武将として名を馳せなかった。今も丹波地域には荻野姓は多い。細川末雄氏によれば、現在769家と言われている。

 

  by 如月ノンノン

 

 

             
 
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