丹波里学 丹波の新補地頭たちその3 

 

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 丹波の新補地頭たちその3

・源頼朝に仕えた足立遠元の孫遠政が佐治荘を拝領し、武蔵国足立郡から承久3年(1209)入部してきた。


・足立氏は、藤原北家流遠兼の子:遠元を祖とする。遠兼は武蔵国足立郡を領有した豪族で、武蔵守に任ぜられた領家職であった。その子遠元が足立を称し、外祖父の泰家から武蔵国足立郡の地頭職を譲与された。遠元は源義朝−頼朝−頼家−実朝と源家四代に仕えている。


・鎌倉将軍三代実朝の頃、「承久の乱」の功により丹波国佐治庄の新補地頭職として遠元の孫・遠政が補された。遠政は武蔵国から、七十人余の屈強の者を連れ佐治庄小倉(太夫殿屋敷)へ移住、その後山垣へ本拠を移し、万歳山に山垣城を築いた。

 これが、丹波足立氏の始まりである。遠政は本拠を山垣城へ移した後、小和田城を築き、二男の遠信に治めさせ、さらに遠阪城(光家)、岩本城(忠基)、稲土城(政家)塩久には基家が、忠基は坂にそれぞれ城を築き、佐治荘内(現遠阪と佐治地区)全域に分住し、但馬および久下・芦田らの諸豪族に備えた。当時の足立氏の所領は約五千余石との記録が残る。遠政の孫光基の三男遠谿禅師は、徳治元年(1306)21歳で渡元して天目山に至り、中峰普応国師に師事し、帰朝後、宗派を樹立し、高源寺を創建している。

・丹波足立氏の全盛期は、南北朝中期で南朝方に属し、元弘三年(1333)二月、後醍醐天皇が船上山で諸国の兵を募ったとき、足立孫五郎政家も出陣し、京都法勝寺で敵三人を討ち取っている。足利尊氏が後醍醐天皇に背いたときも、それに従わず、つねに宮方に心を寄せ、南朝方として行動した。その後、足利幕府が衰えをみせ、群勇が割拠する戦国時代になると、山垣の地も平穏ではなくなり、応仁の乱では、東軍の細川氏に属し、しばしば但馬の山名氏と戦っている。

以後、丹波の他の豪族の台頭とともに、足立一族は佐治郷をかため、諸豪の侵略に備えた。

天正七年(1579)五月、織田信長の第二回丹波攻めで、但馬から遠阪峠を越えて丹波に乱入してきた羽柴秀長の大軍と奮戦し、前線の遠阪城、そして山垣城、さらに他の支城もすべて落城。ときの遠阪城主は勇猛で知られた足立光永、また宗家山垣城主は足立弥三郎基助であったが、城主をはじめ、一族郎党の大半が討死した。

城主基助の嫡男基依と若干の家臣は落ちのび、一旦帰農して他の勢力に属して繁栄したと伝えている。足立氏の菩提寺は、報恩寺で遠元・遠光・遠政三代の位牌が残されている。また、青垣町佐治・妙法寺には足立氏の系図が今日に伝えられている。

  by 如月ノンノン

 

 

             
 
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