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本音の建前


丹波の住まい方

〜丹波で私(達)の場をいかにつくるか〜

「とらわれ」のはなし

一口に「いえ」といっても言い表せないのが「いえ」ですが、「家」という漢字一文字で表せるのも「いえ」です。この家という概念は住まい手ひとりひとり千差万別です。またつくり手ひとりひとりにとっても千差万別です。そのひとりひとりがどう捉えるにかによって全く違うものです。
しかしどうでしょう・・・。みんな執らわれたように同じ家に住み、執らわれたように流行っている家に住んで安心し、どこかの外国の家を模倣した家に住み満足する。何よりも住まい手が満足するなら結構なことですが、家の捉え方は千差万別の筈。模倣やみんなと一緒だからといって本当の家は出来ないのだと思います。模倣や意識したものに本物はないのでしょう。丹波で「スパニッシュ風の家を建ててください・・・」とは、如何なものでしょうか。そこには「自」と「他」を認める事が必要で、よそさんのも認めます。そして何よりも自分の所(私・家族・丹波の地も含め)を知ることが大切だと思うのです。 



「あらゆる部分を計画せよ!」

自分の所を知ることから家づくりは始まります。丹波の集落や家も一見、自然発生的につくられたと思いがちですが、たまたまそうなったとしか思えないような細部に至るまで、実際にはむしろ高度に計画されていると考えられます。偶然に出来ていそうなスタイル、丹波の何気ない風情、自然発生的な見かけも計算しつくされたデザインの結果なのでしょう。丹波には相当な場所の力があり、蓄えられた歴史の力、潜在する自然力等々把握せず、無視した家が乱立しているのには憤りさえ感じます。


「いま・ここを捉える」

住まい手の方がいま・ここを捉えることが出来れば家づくりはその時点で成功したと言えるし、家づくりが飛躍的に楽しくなると思います。前述まで歴史がどうだのとか書いていますが、このこと自体、それらを超越した丹波の人が思った家になるのではないでしょうか。(良い設計士、工務店に巡り会うかの問題もありますが・・・)一から丹波を把握し、家族をしることから出来た家が、たとえへんてこな家になったとしても、それはどこにもない丹波の家であり、そのご家族ひとりひとりの家であるのでしょう。
たとえば、本気で居間を考えるとき、居間に居ることの意味はと自答しみると、“団らんのため”という答え方があるが、この“団らん”がどうもあやしい。“団らん”という言葉はホームドラマのような白々しさがあって、どうもインチキ臭い。近頃テレビの中でさえ絵に描いたような家族団らんはお目にかかれなくなりました。居間はそれだけを目的にしているとは限りません。ひとりで新聞を読んでいることも、爪を切っていることもあるし、夫婦で酔っぱらっていることだってあるし、宿題をしているときだってある。家を創造するとき住まい手の思いすべてにヒントがあり、どの様な部分に意味を付与するか、何をもって意味ある部分として設定するかが重要な課題です。



「丹波のスタイル提案」

今も現存するし、30代の方々なら分かるでしょうが、土間の厨房などいかがでしょうか。少し前までどの家庭でも厨房は畑と繋がっておりました。食べる営みが土に近いほど床は低くなり、畑がおいしい新鮮な冷蔵庫だったのではないでしょうか。それと昔は冠婚葬祭時に他人が厨房に入りまかないをするケースが沢山あったから広いスペースも確保できたのでしょう。これを今流に解釈するならば、土間は汚れたって気にならないけど土間の仕上げにはこだわりたいところ・・・。色んな素材で楽しむのも良いし、足下の冷たさの解消だって方法はいくらでもあります。先人のキーワードはひらかれた厨房と言うべきでしょうか。奥様同士の友達と椅子に掛けお湯を沸かしながらおしゃべりしたって楽しいでしょう。昔は「男子厨房にはいるべからず」といわれましたが、男だって、いつもやってしまう食材をしこたま買って広い土間の厨房で格闘しても楽しい。奥様も義務だけでなく遊戯的に厨房にたてればそれでよいのではないでしょうか。丹波で継承されることを今の解釈で見直すことのほうが、スパニッシュ風の家を建てるよりかはましだと思うところであります。これも「いま・ここを捉える」ということです。
これはほんの一例で丹波の住まい方は皆様、千差万別、家をつくるということは極楽です。(楽しいの極めつき)



細見工務店 専務取締役
細見典行
http://www.hosomi.co.jp/


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